KEWA者RAP 演劇はライブである

オリゴ糖vsブドウ糖

大手ドラッグチェーン店でのやりとり

私「ブドウ糖ってどこに置いてありますか?」
店員「ブドウ糖?、、、ブドウ糖って何ですか?」
私「ブドウ糖、、、はブドウ糖ですが、、、」
店員「少々お待ちください」

怪訝な表情を浮かべつつ確認しに行った店員
少し経って戻ると

店員「オリゴ糖、ではないんですよね」
私「ブドウ糖です」

そのままどこかの棚へ向かう店員
少し経って戻ると

店員「オリゴ糖、ならあるんですがブドウ糖ってものは無いですね」

と申し訳なさそう、、でもない様子でさも当たり前のようにここには無いと確定宣告

ドラッグストアにブドウ糖が無い、なんて聞いたことがない
そう踏んだ私は仕方なく自力で店内をくまなく捜索
すると、、、

ありますがな




ていうか「オリゴ糖」という商品がある事にビックリしたよ、むしろ

あるんですかね、そんな商品が

へ~え

へ~え  

午後八時以降は✕という括り

ここにきてコロナ感染対策という名目で市内の公共施設などに対し一斉に「午後8時までの利用」という制限がかけられた

いつも稽古場で借りている施設も例外なくそのように通達があったので残念だがキャンセルさせていただいた

このご時世、それもやむを得ない事情だろうし、厚意で利用させていただいている立場なので施設側に文句はない

ただ、、、冷静に考えると何故「午後8時まで」なんだろう、とも思う

逆に考えれば「午後8時まで」ならば密で利用しても構わないし、何をしても自己責任という事なのか

よもやその勢いで夜の街へ繰り出すかもしれないので、という理由じゃあるまいしなんでもかんでも「不要不急」にされちゃかなわん

そうでなくとも今やどの施設を利用する際も入り口での手指消毒は当然、検温も当たり前、利用者の身元申告もしているので簡単には利用できない現状でもある

お酒の席でもないし、決められた時間の中で行動(活動)しているのだからせめてあと1時間伸ばして「午後9時まで」の制限にしてもいいのでは

とも思う

飲みに出るな、遊びに行くな、趣味も控えよ、計画など立てるな

と包囲網ばかり敷かれる反面、着々と(国民の収益とはほぼ無関係な)五輪実現へ向けて準備が進められているのだから理不尽この上ない

アスリートに罪はないがそりゃ「中止にしろ」とも叫びたくなりますわな

もっとも、中止にしたところで包囲網が緩むわけじゃないのでそれも虚しき也ではあるが

有識者会議というよりも無指揮者会議と揶揄したくなる無策な対策ぶりも含めていい加減、何とかならないものか

と嘆きたくなる今日この頃であった


あ~あ


  

寄り道のススメ

徒歩での仕事帰り

決まったコースを歩きたくなくて脇道や寄り道、時に回り道をすることがある

同じ道であっても同じ風景であるとは限らない、それは勿論承知の上

どんなに脇道に逸れたところで選択肢は限られている

それでも、脇道寄り道回り道をせずにいられないのはきっと

ゴールが決まっているという事実に対するささやかな抵抗なのかもしれない

それに何かを発見したり、思わぬアイデアが浮かんだりすることも多いので衝動的にそうしたくなるのはそういう理由からだろう

ホンを書くことにも大いに繋がる

昔は出だしだけ浮かべばあとは思うまま書き連ねて最終的にカタチになればそれでいい

という勢い任せ的に無謀なことを試みたものだが当然のことながらそういうモノは物語的に破綻しているとか、意味不明だとか言われがち

ある方(ホンを書く先輩)との話の中で「ちゃんと結末を考えてから書いている」としたり顔(、、、ではないがそう見えた)で言われた事もあって、それからはある程度は筋を構想しつつ書き始めることにした

、、、がそれでもやっぱりどこかで寄り道をしてしまい、そうなるとどこかしら「予定調和」でなくなりどこかしら辻褄合わせが出来なくなったり

そういう時はストーリー展開的に観ているお客さんにとっては溜飲が下がることなく終わったりして消化不良に感じる人もいるのかもしれない

でもそれでいいかな、と

そもそも世の中のことすべてが予定通りに進まないわけで、だったら創作としての芝居(舞台)も尚更そうなってもおかしくないわけで

寄り道したり、脇道に沿ったり、時に回り道をしたりしている途中が楽しければそれでいいのでは、と

結末がすべてではない

そこまでにどういう時間を過ごしたかというところにあるのではないだろうか

だとしたら寄り道、脇道、回り道、上等じゃないか

ただし

度が過ぎるとどこにいるのかわからなくなる、つまり迷路にはまってしまう、のでほどほどに


ということで現在進行形中のホンも、寄り道、脇道、回り道をした挙句に当初の構想(予定)からだいぶ変わっております

別に構わないけど




(写真は、寄り道における銭湯道楽での帰り道の風景)






  

声を出す、までの時間

久しぶりの稽古場に独り、、、

とはいえやっぱり稽古場という空間は何か特別なモノを感じるのです

気が引き締まると同時に一年の時を経てこうしてまたスタートラインに立てそうだという実感

外部の音をシャットダウンしたかのようなシンとした空気が余計にそう感じさせたのかもしれません

しかしながら前回の稽古から約4か月というブランク

さすがに身体は正直ですよね

ストレッチをしようとするも硬いし痛い

スローモーションではふらつく

こんなにダメダメだったっけ、、、と反省しきり

このままでは声も出せない

せっかく台本(の一部)を用意してきたので早く言葉を声に出してみたい、という気持ちを抑えつつまずはじっくり身体をほぐすことに専念

車のエンジンもアイドリングをちゃんとしなきゃ走らないのと同じく演者も身体を作らないと声が出ないのです

そうしてようやく本読み

何度も書きますが今夜は「独り」だったんですけどね、ええ

それでも、書いてる間に気付かなかったテンポの悪さとかいろんなものが見えてくるからアラ不思議

声にして読むのって大事なんだな、と

次回はもう一人くらい増えるはず、、、いや、増えないと困る

何せ台本には登場人物が少なくとも3名はいるのですから

(↓写真は当然ですが自撮りです。まぁ独りなんで当然ですわね)






ところで帰りがけに施設の当番をしていた女性から登録していた劇団名(というかユニット名)の由来を聞かれました

(ちなみに登録名は「劇団KEWA JAP」としてます)

KEWAについては(果たして理解していただいたかわかりませんが)アナグラム的にああしてこうしてって説明はしたのですがそこで突然

「JAPって差別的な意味がありますよね」

と訊かれて思わず言葉に詰まったというか困ったというか

自分ではそういう差別的な意味ではなくかといって深い意味もなかったもののそういう意味合いがあることは理解していたので不意を突かれたように感じたわけです

ところで「KEWA」ってブータンではジャガイモの一種らしいっすね

今度からそれでいこうかしら

ちなみに今のユニット名は「KEWA者RAP」

ということはつまり「ジャガイモの者がRAPをする」、、、??

なんのこっちゃ







  

物語は動く

春ですね、と言われなくとも春なんですが気が付けば春だった、という人も多いのではないかと思う今日この頃

台本、書いてますか?

ええ、私自身に問いかけているのです

書いてますよ

今のところ、三歩進んで二歩下がる、、、という三百六十五歩のマーチ的にゆっくりとではありますが気が付けばそこそこのページ数

ただ、、、

物語はそれほど進んでいないのが現状でしてそれじゃ何がと申しますと今はただ

ヤリトリ

が繰り返されているだけ、と言えばおわかりでしょうか

ヤリトリがくんずほぐれつアヤトリのように絡み合っており、なかなか先に進まない状況にそろそろ業を煮やしてきた頃合い、なんです

だからなのか無性に稽古がしたい

身体をほぐし、動かし、声を出したい

ただそれだけの事ですがなかなかそこに至らなかった三か月余

そろそろ始めたいと思っております

それに物語というのは頭の中だけで進むものではありません

座組を組み、そこで接して、動いてみて、声を発してこそ生まれるものだと思うのです

なので募ってみますか新たな面々を


ムズムズしている其処のあなた

モヤモヤしている底のあなた

モジモジしている、、、かもしれないソコソコのあなた

創めなければ何も始らない

来たれ、稽古場へ






KEWA者RAP代表 ケワフンスケ


















  

我がココロの

その響きだけでときめかずにいられない長きに渡って憧憬の国、ポーランド

理由は言わずもがな、、、いや、言って無いし行って無いので言わずもがなどころか行かずもがなであるのですが

我がココロの映画、我が至上の愛的な映画、オールタイムベスト1『灰とダイヤモンド』の地、ポーランド!

なのでポーランドでこの作品を上演する、と聞いた時はそれはもう

羨ましさと興奮と期待と、で大変だったんですよ

新宿梁山泊『YEBI大王』

新宿梁山泊といえば以前も書いたように演劇を始めたばかりの頃に出会い衝撃を受け、以来、我がココロの故郷ともいうべき劇団であると同時に

我が友であり同胞であるジャン・裕一が現在絶賛活躍中というまさに

「今、観なければいつ観る?」

と言っても過言ではない旬の劇団、しかもそこで何とジャン・裕一はタイトルロールを演じるんですつまり!

「YEBI大王 by ジャン・裕一」





実はですね

今回の『YEBI大王』でジャンが主役をやると聞いた時、少し心配だったんです

新宿梁山泊で歴代主役を張ってきた俳優さんといえばどの方も圧倒的な存在感と演技力、何よりもローラ(©ヒデキ感激)じゃなくて独特のオーラを持った方ばかり

果たしてジャンは主役をやるにふさわしいそれら三種の神器を持っているのだろうか、と

でもですね

本当はわかってるんです、それらを持って余りあることも

これでもジャンの出ている舞台、結構あれこれ観てきた私が思うに彼はやっぱり主役が似合う男だと

脇で暴れるジャンも面白いけどやっぱり主役で堂々たる姿を観せてこそのジャンだろうと

だから心配を上回る期待でその時を待っておりました

そしてこの機会に便乗してココロはいざポーランドへ!



ところがですね

コロナ禍もあって渡航を断念、やむなく映像配信(ライブ配信からのアーカイブ配信)となったわけです

ポーランド語、、、の挨拶をマスターしかけた私としては残念なようなホッとしたような

けれど舞台を配信、って正直ピンと来なかったんです

でもこの予告編を観てその考えは速攻消えました

百聞は一見にしかず、まずはご覧ください

メチャクチャかっこいいんです

『YEBI大王』予告編


えっ?さっきから身内びいきで片腹痛いですと?

昔から言いますよね「身内びいきは身内のイビキだと思えば何てことない」って

イビキをかくのも片腹を掻くのもまずは観てからにしましょうよ

私もチケットは買ってます

まだ観てませんがじっくり腰を落ち着けてみる予定です

って観てないんか~い!

m(__)m

チケットは以下のサイトでどうぞ

https://zaiko.io/event/336337


ということでココロがくじけそうだった2月を終えてようやくブログ再開します

語り口調も以前に戻しました


  

書けないっ!?

というドラマの話じゃなくて、、、とはいえ他人事とは思えずとりあえず観てみたが、、、う~ん、、、面白くなるのかコレ?

今風の言い回しで言うならば「微妙」

厳しい言い方をするならば「次は観ないな」

という事で初回のみでサヨウナラ、という事になったが、だからその話じゃなくてね

然しながら「書けない」という言葉はモノ書きにとって出来ることなら避けたい、一番口にしたくないフレーズ

そして今まさに自分自身にとっても「書けない」というフレーズは言ってはいけない、認めてはいけない、なのに喉元まで出かかっているという

まさに呪いの言葉、、、

だからなのか、「書けない自分」を認めたくないが為なのか

すでに「書き始めます宣言」したし本当ならばその勢いのままノートパソコンに向かうはず、なのに開く事すら躊躇ってしまいがちな今日この頃

いかがお過ごしでしょうか寒中お見舞い申し上げます2021年初のブログですねそうですね

それにしてもだ

書けない

いや、書きたい気持ちがあるのに煮え切らない

とどのつまりが生煮え、、、?

いや、煮えた状態がどうこういう事じゃなくておそらく

「書けない自分に直面するのが怖くて書く行為に入れない」

つまり書く以前の話だったというチキンな私であった

そのせいかどうか知らないが昨日なんか夢見ちゃったよ久しぶりに

「公演直前なのに台本を覚えてない」とか「公演直前なのに何の準備も出来ていない」とかいう

舞台関係者がよく見がちな夢の
ゾッとするやつ、、、

しかも何故か題材は装置がリアルなタイプのホームドラマみたいなのだからなんとまぁ、ってね

いずれにせよ夢の中なので案外と冷静だったりするのだが


まずは稽古だな

何とか宣言なのでやや動きにくいがそんな事言ってたら前に進めぬ

とにかく、稽古だ







  

稽古納め、のようなもの

稽古場をお借りしている施設では毎年この時期に利用団体が集って大掃除(と餅つき)をする

、、、のだが今年はあれだ、あれの関係で各団体が各利用日に各々で掃除をする事でお茶を濁す

というのも変だがつまり大掃除の代わりに、そういう事になったのである

ということで先日の稽古日がその日となり、いつも使っている部屋を軽くキュッツキュッツっと

「今年も残すところあと何たら、、、」なお馴染みのフレーズで考えるとこれが今年最後の稽古なわけで

ここまで数えるほどしか稽古が出来なかったのは残念だがまぁやらないよりはマシである

未来ある原石の卵、、、って石なのか卵なのかどっちやねん!な女子と一緒にストレッチに声出し、スローモーションなど基礎的なのをやって
最後にあまりにも有名な朗読劇の台本を使ってのホン読み(ホン読みって言っても目で読むのではなく声に出して読む、それが芝居の稽古です、念のため説明)

『ラブ・レターズ』(A.R.ガーニー作)、、、懐かしいなコレ、昔、古川(現・飛騨市)のサンタハウスで朗読劇を上演したっけな、あ、でも裏方で手伝っただけなのでやったことはないけど、、、って感じで特に深い意味は無く、たまたま押入れから引っ張り出してきた台本

裏方であれ何であれ、自分が関わった芝居の台本はすべて保管してある、といっても過言ではないので探せば案外とあるのである(自慢ではないが)





話が逸れたが稽古納めついでに今年を振りかえってみる

2月・・・『まんまろ』上演

まだそれほどコロナ禍が酷くなってなかったタイミングで上演出来たのは運が良かったとしか言いようがない
冷や冷やものではあったがお客さんの体温チェックとか手指消毒とかも厳しくする必要がなかったし「密」を避ける事の出来ない空間で何事もなく終演を迎えた事は有難かった

そしてこれが今年唯一の上演となった

その後、座組メンバーが(仕事の事情で)一人去り次回はさてどうしたものか、、、、とまだ楽観視していたのも束の間

春が過ぎ、夏が過ぎ、秋の余韻も味わう間もなく色んな意味での「冬」が到来

その間、そこそこ稽古を重ねたものの次回作のビジョンを立てては消え、立てては消え、、、

アイデアがカタチにならない繰り返しに、今までにない気持ち悪い感じの生みの苦しみを味わいつつとにかく次への継続する意思だけは持ち続けた

、、、んじゃないかと思う

おそらく『獣道一直線』や『唐版・犬狼都市』の観劇で大いに刺激を受けた事もプラスになっているのは間違いないわけでそういうのも「縁」なんじゃないかな、と

その気になればヒトとか場所とか色んな縁がその辺に転がっている(という物言いもどうかとは思うが)、、、はず

出来ないから、と言って諦めちゃいかんのですよ

出来ないのではなくやろうとしないだけ

それだけなんですきっと


ということで次回作予告

『帰ってきた暗闇坂探偵社~テイクアウト、始めました』

フォントが小さいのはまだ何も考えていないから

でも全然問題なし!









  

次作に向けて(ついでに『犬狼都市』追想)

ねずみの三銃士@松本に続いての新宿梁山泊『唐版・犬狼都市』観劇

、、、なんと濃い11月であっただろうか

思考停止気味だった我が"芸脳”も大いに刺激を受けたのか、帰郷後の二週間の引き籠り(残りあと少し)の間にムクムクと、、、
いや、今はまだジワジワと、であるが少しづつ構想が膨らみかけてきたようだ

とはいえ再始動に向けての悩みは尽きぬもの

コロナ?いやそんなものはどうでもいい

どうでもいいなどと書くと怒られそうだがそれ以上に目の前に立ちはだかる壁、それは人材不足という現実問題、、、

演劇に関わる人が居ない、、、いや、居ないわけではなく足りない、圧倒的に足りない

運よくここ数年、若い座組メンバーに恵まれたが、残念ながら何人かは事情があって遠方へ旅立ってしまった

役者でも何でもいいけど、やる気のある若い女性はいても男性でやりたいという人と出会っていない事が何よりも寂しい

この地で活動している劇団がほぼ皆無という事情もあり、そういったモノに触れる機会がないのも一因なのかもしれない

いやもしかして二十代くらいの若い人には(若い人若い人って書きたくないけど若い人なんだからしょうがい)必要のない表現方法なんだろうか

YOUTUBEとかインスタとかTIKTOKとか表現する術は幾らでもあるし、演劇なんて時間もかかるし何より面倒って思うんだろうか

どこかに居ないかなぁ剥き出しの原石みたいな人、、、ってたまに思うけど現実はそうは甘くないのである

だったらやれる人でやればいいじゃん、って言うのは容易い

人が居ないってのはそれだけ出来るモノに限りがあるって事になりかねないから

仮に、二十代の役を倍以上の年齢の私がやってもいい、、、いや、やらせてもらう、とする

コントならそれはまかり通るし、笑いのネタとしてやり切るのもありだろう

気持ちで何とかなる部分とそうでない部分があって、やっぱりそれなりに近い年齢の人にやってもらったほうがいいのでは、とか思ったりしてしまう

話は変わるが『唐版・犬狼都市』の主役を演じた宮原 奨伍さん

二枚目なのにフニャフニャした独特の喋り方(そういう役柄なんだろうが)が妙にハマっていて混沌とした世界において毒気たっぷりな役者陣の中で唯一清涼感溢れるというか汗が汗として感じられる不思議な魅力があったのだが、ふと思い出したのがかつての梁山泊における近童弐吉さん

今でこそ年齢を重ねた渋い役者さんではあるけどその昔、初めて梁山泊で観た弐吉さんは堂々たる二枚目であった

宮原さんよりは尖がった感じはあったし独特の色気があった分、アングラ臭は強かったのでそこは状況劇場出身たる由縁だろうか

そんな弐吉さん、いつ出るかいつ出るかと思った後半にようやくのチョイ出演
劇中で「あの役は俺が演じるはずだったけどスケジュールが合わなかった」などと自虐ネタのような台詞があったけどまさしくあの役は昔だったら近童弐吉が演じていたんだろうな、と

昔だったら、、、そんな風に書きたくないがやはりその役が似合う年齢というものがあるはず
今、その年齢だからこそやれる役がある、だからこそやってほしい

梁山泊で主役を張る近童弐吉も観てみたいがやっぱりあの役は宮原奨伍で良かったのだ

そんな事を考えると二十代の役にチャレンジしようなんて勇気はとても沸きやしない

というか、本音はそういう人材に出会いたいだけなのかもしれないが、、、

  

紫テントの向う側

新宿梁山泊の舞台が"闇鍋のようなもの”だとするならば、ジャン・裕一は"豆腐”のような存在なのかもしれない

、、、そんな事をふと帰りのバスの中で思った

喩えが乱暴すぎて何の事やら、そうお思いの方に説明するとここで言う舞台とはつまり先日観た新宿梁山泊『唐版・犬狼都市』についての事






コロナ禍真っただ中、というよりも増加傾向にある東京へあえて行ったのはあくまでも仕事の用事があったから(←ここ重要)

とはいえ、せっかく行くのならば少し足を延ばして同胞、ジャン・裕一が出ている芝居を観るべきではないか

しかも今回は下北沢線路外空地に建てられた紫テント、そして何よりも新宿梁山泊の舞台

新宿梁山泊(以下、梁山泊と略す)、、、今から二十数年前、演劇に関わり始めた頃に出会い衝撃を受けた自分にとってルーツのような劇団

地元(といっても隣町・国府)の方と縁があった関係でほぼ毎年といっていい程に近い場所で公演を打ってくれたおかげで幾度となく観劇する機会があり、ある時などは地元有志のツアーに便乗して富山まで行くほどの熱狂的梁山泊ファンであった

ちなみに当時、劇団の若きヒロインであった近藤結宥花 (当時は近藤優花)さんのファンで貰ったサイン色紙は今もラップで包んで、、、

、、、という話は長くなるのでさておき、と

何はともあれ紫テントである




(↑写真は裏口から写したもの)

紫、といえば殿下(プリンス)のシンボルカラー、そこに心ときめかずにいられないプリンスファンは居ないだろう

ってプリンスファンの話じゃねぇし!

、、、脱線が続くので時を戻そう m(__)m

という事で新宿梁山泊

梁山泊といえば唐十郎作品(勿論、座付き作家による作品も多いが)、唐十郎といえばアングラの代名詞のような人

独特の語り口の台詞は時に激しく、時に重々しく

その混沌とした世界は理解するには容易くない、、、

(唐さんの作品について語れるほど観ていないのであくまでも今まで観た作品から受けた印象)

そして今回の作品も、、、

かくいう私も実は今までになくチンプンカンプン、今、舞台の上でどんな展開になっているのかわからなくなったくらいで

随分と永い事こういう芝居に触れていなかったけど、ああ、こういう感じだった、こういうのが観たかったんだ

という感覚を取り戻すまで少し時間が掛った程

最近は理解出来ない事がストレスに感じる人も少なくないのでそういう意味ではやっぱりアングラって万人受けするものじゃないって事なんだろうけれど(それでこそアングラたる由縁ではあるが)

ただ、その難しさはつまり理解しようとするからそうなるわけで、そもそも思うに、アングラ芝居とは理解するものではない

いや、アングラだけではなく舞台演劇とは理解するものではないのだ

舞台演劇とはライブであり体感すること

何よりも目の前で起こっているコト、目にし耳に入りし動いているモノに対して受け止め感じること

それが大事なのではないかと


それに加えてテント芝居である

そう

テント芝居に理屈や筋道など要らない
テントをくぐればそこは現実と切り離された空間
舞台の上で繰り広げられる異世界に誘われるまま身を委ねたもの勝ち

ハチャメチャで何でもアリ、次から次へと登場する奇妙奇天烈な味
味に整合性もあったものじゃない、なのにとてつもなくハマってしまう魔法の闇鍋

それがアングラという闇鍋なのではないかと

見るからに濃厚なスープの中にあるのは煮込まれた色とりどりの沢山の具(役者)たち
異形やゲテモノ(食えないモノではない)に混じって美しく色鮮やかな彩りを放つモノ(ヒロイン、または主人公)が見え隠れ
ごった煮の具の中でもがくように浮いては沈み、また浮いてくる

その中のひとつ(一人)がジャン・裕一(旧名:中田裕一)である

(写真はトイレの前に立つジャン↓ちなみにトイレが舞台ではないのであしからず)




とはいえ彼の舞台経歴にアングラという文字は無い(少なくとも最近までは)
梁山泊の舞台に出てからジャン・裕一と名を変え、二度目の舞台
そんな彼にとってどこまでアングラ演劇の水は合うんだろうか、と

そんな不安(、、、ではないか)などどこ吹く風
目の前の舞台に居たのは今までと変わりない中田裕一(=ジャン・裕一)

そう、、、そこに居たジャンはまさにアングラという闇鍋に浮かぶ豆腐だったのである

豆腐、すなわち万能の具材

どんな鍋に入れても邪魔にならないしスープを染みこみすぎて素材感を失う訳でもなく、余計な事をしなければ煮崩れることも少ないし他の具との共存も可能

それでいて豆腐としてのアイデンティティを保ち続けるという文字通り白くて憎めない輩

それが今回の芝居における豆腐としてのジャン・裕一だったのではないかと

近年は映像での活躍が目立つがあくまでも出自は舞台
舞台に立ってこそ魅力を放つ男、それがジャン・裕一

独特のオーラを放ち、舞台でも映像でも見劣りすることなく、出しゃばりすぎず、それでいてしっかり存在感を刻む
主役もこなすが今回はあくまでもアンサンブルであり、それでいて重要な役割

道化のように場を和ませるかと思えば、ある場面ではかき回し混乱へと導く
なのに最後は狂言回しのようにしっかりと〆たりもする

そういった多彩な表現を必要とされる役に対して、今までと何らスタンスを変えることなくそれでいてアングラの鍋の中でもちゃんと存在感を放っていたのである


、、、と、あまりに褒めすぎるとある種の身内びいきというか提灯記事にも思われそうなのでほどほどにしとかないと

あえて欲を申せば、アンサンブルとしてのジャンも捨てがたいがやはり主役を張ってこそ輝きを放つ男

次作『YEBI大王』ではタイトルロール(つまり主役)を演じると聞くがスタンスを変える必要が無いとはいえそこはやはり新宿梁山泊

郷に入れば郷に従えではないがクセモノ揃いの面々の中で他者を凌駕するほどの存在感が必要となる気がするわけでつまり

今ある豆腐のしっかりとした強さと柔軟さを保ちつつも湧き出るような強烈なエグ味があってもいいのではないかと

それこそ食べると中からジュワッと染み出る黄色いやつにヒリヒリとさせられるようなあのカラシ豆腐のように

いや、おそらく主役になったらなったで噛めば噛むほど染み出でるような味わい溢れる堂々たる姿を見せてくれるのではないかと密かに期待しているが

そんな『唐版・犬狼都市』

勿論、ジャンだけではなく舞台を彩る役者たちの中には魅力あふれる面々が揃っているので、その中から貴方好みの具材を見つけるのもオツではないだろうか

、、、ってだから鍋の具材に喩えなくてもいいですよね、はい

m(__)m


蛇足だが下の写真はテントの片隅で見つけた劇団の洗濯スペース、、、ってやってる事は覗き行為のようだが決して覗いたわけじゃなく見つけただけ

こういう雰囲気が感じられるからテント芝居は面白いのである






公式サイトはこちら↓

http://www5a.biglobe.ne.jp/~s-ryo/  

パッション

前回のブログで「台本を書く」と宣言したはいいもののいまだ何も手つかず

次回稽古のプランもあれこれ立ててみたものの気持ちが前に進まない

意欲ある若手が参戦の意志を示しているし、その時が来たらきっとまた力を貸してくれそうなスタッフも控えている(はず)

なのに肝心のホンが書けない、、、

こういう時によく使うのが「枯渇した」というフレーズ

だがネタは幾つもあるし手を付けたまま先に進んでいないホンもあるし、そういう意味では「枯渇したわけではない」という自負はある

、、、自負なのかコレ?

兎に角、ネタに困っているわけじゃない(自慢ではない、決して)

何度も書くが、気持ちが前に進まないのだ

そんな折、毎日新聞の夕刊にあった辺見庸氏のインタビューを読んでハッとなった

「やっぱりコロナが、物語性を奪うというか、壊しちゃうっていうか。物語る力がやられる感じがしてね。パッションが起きなくなっている。」

(以上、インタビュー記事より一部転載)

、、、パッションが起きない、そうか、、、そういう事だったのか

凄く腑に落ちたというか、そういう事だったんだな、と

勿論、辺見庸氏のような方と自分を比べるのはおこがましいのであるが、コロナに抗うあまりに何とかしよう何とかしなきゃという思い

それが先走ってばかりで肝心のパッションが沸き上がってなかった

そりゃ無理だわ、と

今まではそれなりに勢いで続けざま公演を打ってきた事もあるし同胞に恵まれた事が何よりもチカラ(=パッションの源)と成っていたのだと思う

しかしこのコロナ禍

出来ないかもしれないという空気が向かい風というか壁になっていて、それを乗り越えねばという無意味なプレッシャー

お客さんには関係ない事実だとはいえ今現在公演を続けている劇団(⇒ユニットも含む@飛騨地域)が自分だけという負い目まで抱え込んで、それに加えて若手の気持ちに応えたいという思い、、、

そりゃ無理だわ、と(二度目)

今だからこそやるべき芝居、なんてものがあるかどうかはさておき

今やりたい事がない以上、書けるわけがない

今だからこそ書くべきだし今だからこそやらないと、とかなんとか奮い立たせてみたもののそもそもそんな動機で何か書いたところで面白いわけがない

まぁ、、、無理しなくてもいいかな

って辺見氏の記事を読んで少し楽になったのは正直な気持ち

今年出来なくてもいいやって思えばそのうち何かやりたいもの出てくるだろう

それまで適当にやりますよ

稽古だけは続ける、続けなかん

これだけは誰かの為じゃなく自分の為に

誰か来れば一緒にやる

誰も来なきゃ独りででもやる

それが稽古

まあ密かにワークショップ的な試みから何か新しいアイデアが生まれる、なんて事があれば面白いんだろうけれど

とか思いつつもそんな事はまず無いんで




(写真は本文とはまったく関係ありませんが護国神社お堀から見た紅葉な景色です)

  

映画『初めての女』検証(孝作、俳句やめるってよ②)

昨日、文化会館大ホールであった『神田伯山独演会』が素晴らしく良かったので今もまだその余韻に浸っていたい、、、のではありますが放置したままでは気持ち悪いので前回からの続きを

それにしても大ホールって見づらいですよね
コンサートとかはまだしも落語とか講談とかを観る場所じゃないな、って改めて思った次第です(観れたのはラッキーですが)





さて続きです



洋食屋でお玉といふ女中と出会ひ、逢瀬を重ねる孝作。だがある時、同席した麗しき芸妓に一目惚れし、あつさりとお玉を袖にする孝作17歳

「「さやうなら」と振返りもせずに後髪見せて、ひさごやの入口に行った。私の心持が今晩初めてみたひとに移つたのを、すばやく感じた風であつた」(文中より引用)

、、、何をセンチな事を言ってるんだ、と

17歳にして知ったような口を利く、というか自惚れ過ぎな孝作に対し呆れるばかりですが、映画の中でも別れの場面は、小雪舞う三之町をバックに切ない表情を浮かべ背中を見せるお玉さん、片やその言葉に真意が掴めず戸惑う孝作という対比がなかなかの構図で描かれておりました

そんなわけで兎に角、こうして出会った芸妓「鶴昇さん(本名・お菊)」に夢中になっていく過程が、(お玉さんとの事よりも)丁寧に事細かく書かれていくわけです

何しろその日のうちに早速、ゴミ二階で自作の俳句付きの恋文をしたたた程ですので、どれほどの恋心だったかを強く感ずるところですが、それを直に持って行くのではなく友人の梅地に頼むあたり、何様だよ!その勢いがあるなら自分で届けろよ!って

それにしてもこのような体たらくな孝作(17歳)に8つも上(25歳)の鶴昇さんことお菊さんが惹かれたのか、それが映画を観ていてもうひとつの謎だったわけですが、この日を境に、鶴昇さんと会う機会が何度かあり、そうしてついに二人きりで待合(今でいう連れ込み、、、今はもう言いませんね、逢引を目的とした場所です)にて落ち合う算段がついたわけです

孝作にとっても筆おろし、と書くとストレートですが、そうなる予感がするわけですよ

「十二月六日の晩、行きがけに例の柳湯に入浴中、今夜は初めて女のひとがわかる予感がして、ことにからだをきれいに洗つた」(文中より引用)

、、、事前に身を清めていくところなんざ今も昔も変わらないといった感じですがまさにその気満々

このあたりの初体験時の描写はあっさりしつつも意外と生々しくて(映画では割と綺麗に描いてましたが)ランプの薄明りの中の秘め事を想像させるには充分ではありました

、、、ってそこは重要ではありませんね、はい

その翌日、普段ならさほど仕事に身が入らない孝作もそこは男になった勢いとばかり、セリ上げ声も高らかに、なんですがいかんせん支配人との関係があまり良好ではないが為かあっという間にテンションダウン

いつも通りの「ノンキな店員」に戻りましたとさ、チャンチャン

って終わってどうすんだよ!

m(__)m

ここからはもう遊びを覚えたサルとばかりに、何度も何度も逢瀬を重ねるわけです

鶴昇さんにとって孝作は果たしてそれほどまでに魅力的だったのか、それとも断り切れず逢っていたのか

そんな疑問は鶴昇さんの告白のような独白(「童貞を捧げられた事が初めてで嬉しかった。今までの自分に対してここまで真剣に想ってくれた人は居なかったというようなこと)に何となく表れておりますがとはいえ孝作17歳

25歳にして人生の酸いも甘いも知り尽くしたような鶴昇さんとは思いの深さも違うのではと勘ぐってしまうわけですよこちとらね

そもそも半端モンの店員の分際でいったいどこからそんなお金が出てるんだよ、と疑問が沸くほどに火遊びに呆けてるわけで肝心の俳句熱はどこへやら、といった感じの孝作ですが、そんな日がいつまでも続かないのは当たり前のこと

ロクデナシの孝作はついに人力車で駆け落ちを模索するわけですがそんな想いを知ってか知らずか、お菊さん

「私、見受けされるのよ」

と告げられ哀れ撃沈し号泣する孝作

そうして失恋の心を自ら慰めるかのように、桐碧梧先生(絶妙なタイミングで登場しますな)と連れだって訪れた山の頂にて

「この地で始めます!」

と高らかに宣言するのであつた、メデタシメデタシ

(そしてそれを回想する老いた孝作の冬山で浮かべる笑みにてジエンド)


、、、とは映画の中でのお話

実際は意外とあっさりめでして

この頃、父が後妻を取るという話が浮上したものの継母となるその人とはどうにもソリが合わず、さらに上司との仲もイマイチで仕事にも身が入らず、ならばいっそ大阪の叔母のところで一旗上げたい、その上は一緒に人力車で駆け落ちしまいか

と夜逃げ同然、一世一代の賭けに出るがごとくお菊さんに誘いをかけたものの、待てど暮らせどやって来ず、、、結局一人で大阪へ行きましたとさ、チャンチャン

というのが事の結末でして、映画であったような美しくも切ないお別れの場面は見られませんでしたね、残念!

映画後半で描かれた父との不仲を取り戻す、、、みたいなエピソードも文中ではあまりわからず

ていうか父ちゃんが孝作に謝る事がそもそもおかしいというかたとえ魚河岸の仕事が押しつけられた事とはいえ、給料を家に一銭も入れていない(文中でそう申してました)上に、継母を見下すような態度を取る孝作の方が謝るべきでは?と思ったほどですよ

という事で長々と検証のようなものをしてきましたが結論として感じたのは

これだけの題材をよくあそこまで映画にまとめたな、と

正直、2時間の大作にしなくとも良かったのではと思いつつも製作に関わった皆様には頭が下がる思いでございます

とはいえやっぱり内容的には1時間半、、、かな

お疲れ様でした

本当は③まで引っ張ろうかと思ったのですが面倒くさくなったのでこれにて打ち止め

台本書こうっと(まだ展望段階)  

映画『初めての女』検証(孝作、俳句やめるってよ①)

(つづき)

という事で、批評でも批判でもなく「検証」
なのでなるべく、、、なるべく簡潔に書き連ねます

原作は昭和48年に新潮社から出版された『俳人仲間』

幼少期から少年期(17、8歳頃まで)を回想する読み物は以下の四篇で構成されてます

<序篇>桐碧梧のこと/俳句の師匠である河東 碧梧桐(へきごとう)先生との邂逅、、、って呼び捨てかい!

<第一篇>飛騨高山にて/故郷飛騨高山での俳句との出会い

<第二篇>ノンキな店員/魚河岸の店員として働いた経緯や仕事の様子

<第三篇>初めての女/今回の映画で主に描かれる事となる二人の女性との出会い

<第四篇>出郷/その流れで故郷を出るところまで

出版当時孝作79歳

そりゃ記憶が行ったり来たり同じ事が繰り返し登場したりしますわね

、、、失礼

その割には当時交わしたやりとりなど事細かに記憶しているのかそれともかなりの部分で創作が入っているのか妄想混じりなのか
その点でかなり怪しい感じもしなくもありませんが、とはいえ昔の飛騨高山の情景というかこんな所にこんなものがあったのか、とか、今も残る名勝やお店などが出てくるあたりは結構楽しく読めたりするので興味のある方は一読をおススメします

(ただ、、、基本、回想なので語り手を「私」で統一すべきところが相手によってか「少年店員」になったり「折柴(雅号)」になったりと混乱させるような書き方もあったり「...」という三点リーダーがやたらと多いところなど、「小説家」とお呼びするには何だか読みにくい部分もあったりするのでご注意ください)

まぁ私ごときが偉そうな事は申せませんけれど

ということで映画に照らし合わせながら幾つか検証してみます

~以下ネタバレありなので映画を観ていない方でいつか観ようと思っていらっしゃるなら読み進まない事をおすすめします~

その1「残念すぎる孝作キャラ」

映画を観る限り、半ば親父に押し付けられた魚河岸店員の職とはいえ、仕事にも身が入らない、俳句もそれほどのめり込んでいるようにも見えない、のぼせあがったはずの洋食屋の女中から簡単に他の女(芸妓)に目移りする、その上で親父に借金を肩代わりさせる体たらくの果て、夜逃げしようと目論むもフラれて号泣、、、

芥川賞選考委員まで務めた文人の若き頃とは到底思えぬ残念キャラが画面から溢れていた孝作の姿は果たして真実なのか?

その謎を解くためにまずは父親に登場してもらいましょうか

本によると孝作の父は元々は大工の棟梁だったのが山に手を出して失敗、そのせいで指物師に転向したようで(映画では何故か円空仏のようなものを彫る一刀彫職人のような描き方をされておりましたが、、、その方が絵的にわかりやすかったから、かしら)、決して暮らしは楽ではなかったからか息子である孝作には「商人になれ」と勧め、当人もよく考えもせず従がっただけ、、、のようです

「私は十二歳の子供で、何もわからず父に従ふほかなかつたが...」(文中より引用)

12歳じゃ仕方ないですよね

そのせいなのか魚河岸店員という仕事そのものに面白みを感じなかったのか、上司(?)とも馬が合わず職場仲間からも浮いた存在でだったようで、さらに朝から晩まで働きづめというわけでもなく結構時間に余裕があったせいか、空いた時間は読書や俳句に明け暮れていたようでそれが劇中でも登場する通称「ゴミ二階」と呼ばれた物置部屋

古新聞を読み漁るうちに出会ったのが正岡子規による「日本俳句」というコーナー

退屈な仕事(魚河岸関係の方、スミマセン。あくまで孝作の心中を代弁しております)の日々、刺激を受けるには充分な読み物だったに違いありません

ちなみに映画では俳句との関わりはラブレター代り的な描かれ方でサラッとしておりましたが本では結構なページ数を費やしております

(劇中でその辺りの描写がもっとあれば孝作の印象も違った可能性もあるような気も、、、以上、個人的な見解です)

とはいえ孝作もやはり男ですしエネルギーも無駄に余っているわけでして、思春期に異性に興味を抱くのは彼にとって自然な流れだったのでしょうね

たまたま誘われて行った洋食屋で孝作の心を動かしたのは初めて味わうチキンカツレツの味ではなく、名古屋弁の女性店員

それが映画で最初に登場する「お玉さん(およそ20歳くらい)」です

「当時、十七歳の初心の私は好奇心が強く、二十女のパッパッとふりまく愛嬌と色気に、いささかイカレたやうでもあつた。」(文中より引用)

食い気より色気なのか、洋食屋勤務のお玉さんに入れあげていく様子がわかるわけですが、俳句に興味を持ったのと同じように好奇心先行だったせいか本気の恋とまではいかず

何度か待合で飲食をするまでの関係に至ったものの肝心の玉さんが、会うたびに接客時の明るい雰囲気とは真逆の、心ここに有らずといった素振りを見せた、、、せいなのかわかりませんが、たまたまついた芸妓さんに一目ぼれしあっという間に乗り換えます、しかも、お玉さんが同席しているその場で!

「玉サと見くらべても、格段の品のよさ、一芸を身につけたおちついた姿、何でもざつくばらんに正直に出すひとと見えて、好もしかつた」(文中より引用)

、、、幾らテンションの低い連れ(玉さん)だったとはいえ、比較の仕方と言い、とんだ言い草ですな

このあたりを読む限り、孝作の残念なキャラ(身内関係者の方、ゴメンナサイ。あくまで検証です)は映画で描かれたそのままだったのかな、と思いましたが、まぁ17歳の若造ですからね

気移りしても仕方ないといえば仕方ないのかもしれません

ということで長くなったのでつづきます

(引っ張るなぁ、この企画、、、とお思いになったら無理に読まなくて結構です)








  

『初めての女』検証(前置き)

検証...粗探ししている場合じゃないんですけどね、そんな暇あるなら台本書けよって言われそうですが

...って誰に?

余談ですがこの「...」、正式には「三点リーダー」と呼ぶそうで小説などでは「余韻」的なものを表わすのに使う事が多いようです

さて

先月、高山市民文化会館大ホールにて『初めての女』という映画を鑑賞してきました

高山市文化協会設立70周年記念映画という事で本来ならば3月に華々しく上映会が行われたはずの映画ですが、半年越えてようや上映されたという事もあり、さぞかし大ホールの前には長蛇の列が、、、と思ったら余裕で座れました

あちこちで開催されたせいでしょうかそれとも感染を怖れてだったのか、神田伯山のチケット発売日とはえらい違いだな、と一人ごちたは余分な話ですが

映画『初めての女』は原作があの有名な、、、といっても私は名前しか存じませんでしたが飛騨が誇る著名な文人、瀧井孝作の『俳人仲間』

何しろ芥川賞創立時の選考委員を務めた方ですから、どんな事情があったのかは存じませんが「映画を作るなら瀧井孝作でいこう」という鶴の一声でもあったのでしょう

その『俳人仲間』の中の幾つかのエピソードから成り立つこの映画
監督の小平氏を始めスタッフは外部のプロ、メインの役者もほぼ飛騨以外の人、という事で飛騨に縁のある瀧井孝作(居たのは17、8歳頃までではありますが)の映画を飛騨に縁の薄い人たちが製作するというオトナの事情、、、はさておき

大々的に地元ロケを敢行し、クラウドファウンディングまで行ったわけですから、原作未読の私でも期待せずにいられないわけです

そうでなくとも個人的に長い付き合いのある演劇同胞二名が役者で参加しているのですからドキドキしながら久しぶりの大スクリーンでの上映を楽しみにしておりました

そして上映終了後

会場をあとにする私の心の中にはモヤモヤしたものが渦巻いておりました

勿論、映画そのものは決して悪い出来だとは思いません
外部から来た製作陣とはいえ飛騨への思い入れ無くして作れ得なかった映画だと感じられるような「飛騨らしい」映画になってました

映像的にも綺麗な場面が幾つか印象に残ったし、地元ロケを生かした飛騨ならではの情緒ある風景(たとえ瀬戸川ロケが多用されたとしても)は映画の内容と合っておりましたし、魅力的な女優さんも出ておりましたから、(途中でイビキのような音を聞いたとしても)二時間という予想外の長さであったとはいえ眠たくなるような退屈な作品だと切り捨てるような映画ではなかった、とあらかじめ言っておきます

ですがなんでしょうこのモヤモヤしたものは

少年時代だとはいえ映画の中だとはいえ文人・瀧井孝作のあまりにも残念なキャラ設定
なんだかよくわからない父との関係性
そして何よりも二人の女との関わり

そうして日を重ねるにつれそのモヤモヤはどんどんと大きくなっていって、、、気になって気になってこのままじゃ気になる木になりかねない
そこで私はこう思ったのです

「そうだ、原作を読んでみよう」

前置きが長くなりましたので続きは次回











  

そうしたくない理由②

今まで当たり前だったことが当たり前でなくなっているという現実

慣れるべきか、抗うべきか

それとも「新しい何とか」という押し付けられた価値観に従がってみるのか

というTO BE OR NOT TO BE的な話はさておき

オンラインなんとかというものにはどうにも慣れたくない私、ケワでございます、どうも

ところで「ノスタルジーは寝る子を起こす」という諺、ご存知でしょうか

「好奇心は猫を殺す」にもどことなく似ておりますが、って似てませんね、失礼しました

実はこないだ納戸を整理していたら懐かしいものが出てきましてね

今から十数年前でしょうか
当時、所属していた高山市民劇場の舞台『天使に卓袱台』を撮った際の映像なんですが、劇団関係者から借りたカメラ(Mini DV)で撮ったシロモノなので今では再生出来ない状態だったわけですがふと思いついてDVDにダビングしたんです

あくまで「記録」という意味で残してみようと思っただけなのですが何しろ私にとって初めて演出した作品でして、せっかくなので記憶を辿る意味でも観てみると、、、これが、、、

記録媒体がテープという時代ゆえでしょうか、なんとも粗い映像で、ボカシか!と言いたくなるほどのラフな映像

さらに固定カメラゆえアップなどないものですから細かい表情がわからない

それに加えて外の音(騒音)が邪魔をするという、、、

実は公演場所が今は無き「昭和なつかし館」という施設でして(思えばこの芝居があったからこそ今に繋がるまさに原点だったわけですが)ただでさえ狭い場所で、冷房もない夏の暑い時期にお客さんを詰めるだけ詰めて上演したものですから閉め切る事も出来ず、、、

苦肉の策で外を開けて風通しをよくしたら車の通る音が丸聴こえという、、、最後列のお客さんはさぞかし煩かったのではと思う訳ですがそういうよくも悪くも臨場感が映像に記録されていて、ちょっぴり苦い記憶が蘇ったわけです

が蘇った苦い記憶はそれだけにとどまらず

何度も申しますが初めての演出作品ということで、やっぱり経験値がないだけに目を覆いたくなるような演出も多々ございまして

暗転が出来ていない、照明効果が足りない、など今だったら、と思う事が沢山ありまして、そういう意味でも苦いというか酸っぱい思い出が蘇ってきたわけです





ですけどね、、、今だからこうだ、っておっしゃいますけど今がナンボだよ、って
過ぎたるは及ばざるがなんとかで今だって終わればああ、あそこはこうしたほうが、とか思うに決まってるんですから
大した違いがないわけですよ

あの時だからそこまでしか出来なかったけど出来ないなりに知恵を絞ってやった結果なんです
いや、むしろ褒めたいのは役者ですよ
右も左もわからないペーペーの演出によくついてきてくれたな、と
今思えば個性的な面々があそこまでよくやったな、と

、、、もっとも、あの時に舞台に出ていた人で今も続けている人はほぼ皆無、という事を思うと何だか寂しい気持ちになりましたが

映像は映像として、やっぱりああいう臨場感たっぷりの映像記録を見てしまうと思うんですよ

演劇はライブだ、って

舞台があって、そこで演ずる人がいて、お客さんがいる、同じ空間を共有するからこそ成り立つ「演劇」という表現の面白さ

これはオンラインでは伝わらないと思うんです

だからこそナマの舞台でやりたいし、観て欲しい

飯のタネとしてやってる人だったらどんな手段でもやらなきゃいけないけど我々はアマチュアなんです

アマチュアだったらもっと自由でいいと思うんです

だからやりますよ

その前に

書かないとですね

今だから出来る芝居を、じゃなくて今やりたい芝居を






  

そうしたくない理由①

稽古場でもソーシャル・ディスタンスを保ちつつマスクで発声練習してます

、、、建前上は、という話ですが

どうもケワです

それにしてもこのクソ暑い中、眉間に皺を寄せつつ歩きスマホをしている皆さんは一体、何をそんなに見つめてらっしゃるんでしょうね

よそ見する時間を惜しんででも何かチェックしておかねばならない事が山ほどあるんでしょうか

あと、歩きながらスマホを握りしめている方も沢山いらっしゃいますがその手で日傘を差したほうがよほどいいのではないかと老婆心ながら思うわけですが、あれも常に操作できるように待機しているんでしょうか

そういう皆さんの様子を私は心の中で「待機移動」と呼んでますが決して蔑んでいるわけではないのです

自分もスマホを持ったらもしかしてああなるんではないか、という怖れがあってこその戒めなのです

今でこそガラケー(ガラホ)ユーザーではありますが身近にタブレットがあるとついついチェックしてしまいがち、、、

なのでスマホまで持ってしまったらそれこそ常に何かしらチェックしたり検索したりしてしまう「待機移動予備軍」だったりするのです

だから私は持たない、持ちたくないのですスマホ

こないだある大手家具チェーン店のレジでポイントカードを出そうとした際に店員さんから

「よかったらアプリもあるので」と勧められたのですが「ガラケーなんで」と断ると苦笑いされました

意地でもスマホなんかにするものか、と心の中で思いました


ケワです


、、、ケワです


、、、、、、、、ケワです


  

演劇に未来はない?

近況報告がてら、、、


月に二回のペースで稽古をしてます

舞台で動けるカラダと声、そして勘を鈍らせたくないが為の稽古

なのでストレッチ~発声といった基礎稽古、時々、生きた台本を使っての声だしで約一時間ですが独りであってもそうでなくてもあっという間です

ルールに従ってマスク着用で換気の為に窓を開けているので制約も多く、激しい運動は出来ませんがそれでもやらないよりはマシです

「独りであっても」と書きましたがソーシャルディスタンスとかいうルールの為、今や2~3人居れば充分なスペースです

いっそ一人芝居もしくは二人芝居でもやればいいのかもしれませんね、と書いておきながらKEWAの芝居はいつもだいたいが二人とかで舞台に出ているじゃないか、と言われそうですが

とはいえ、今やこの地じゃコロナでなくとも絶滅危惧種の「演劇」というシロモノ

せっかくならやる気のある人の芽が見えたらそれを育てたくなるのはヒトというものでして

なのでそんな「やる気」という樹の「芽」がありそうな若い人と縁が有る度に声を掛けてみるわけです

スカウトマンか!

ということで、そんな有志が先日二名、稽古に参加しました





主宰がニヤケ面に見えるのは気のせいです(VIVA LOSSTA!)

何故なら次のホンが決まっていないからです

本当ならすぐにでも彼女ら有志を巻き込んで何か目論みたいところなのですがそうもいかず

焦る必要がない反面、余裕がありすぎて困るというか

何せお尻に火がつかないと動かない性格でして、、、

いつでも出来る環境も困りますが、いつまでも出来そうにない環境はなお困りものですね、トホホ


ただ、、、

展望は見えてませんが活動は継続していこうと考えてます

これでも実は次の芝居の構想を練っている最中なんです

(現実として課題は山積み、難航の船出になりそうですが、、、)


前回のブログの後に「演劇クラスター」などと呼び名をつけられた集団感染が新宿の小さな小屋で起きました

起こったことは不幸ですが仕方ありません

ですが「演劇クラスター」などと呼ばれると小さな小屋で活動している者としては肩身が狭くなるばかりどころか動きにくくなるのも事実

たとえ地方在住のアマチュアとしても、です

恐らく今の状況が続く限り、「換気の悪い」「狭い空間」での上演は難しいかもしれません

こないだの『まんまろ』もコロナ禍に入るギリギリのラインで上演しましたがあの時はまさかここまで続くとは思いもしませんでした

ですが多分、今までどんな時代でも色んな事があって、人々の知的好奇心を刺激するモノは常に紆余曲折を経てその時代に合った(もしくは抵抗しながら)表現できたはずなのです

オンライン上演、なんてのも決して否定はしませんがそれではライブである演劇の面白さは半減してしまう

なのでやっぱりライブでこその演劇なのです

野田秀樹さんの言葉じゃないですがこういう時だからこそやらなきゃいけないと思うのです


不要不急ではなく浮揚不朽

ボチボチやります






  

稽古再開、、、も再会はマダ

今月に入りようやく稽古場として借りていた施設が再開となり

KEWA者RAPもここに来て再始動となりました

といっても行ったのはストレッチなどの基礎稽古、あとは既成の台本による本読み少々、、、

ストレッチも本読みも、極端な話、自宅で出来なくもないのですがやはり「稽古場」という空間は特別なのです

とはいえ

今はまだコロナ禍が鎮静したわけでないのでルールを順守しての使用

「マスク着用」「来館前の検温」「ソーシャルディスタンスキープ」といった事は勿論のこと、使用者全員の氏名・連絡先・体温を申請し、それらの項目をチェックするという事をクリアしてやらねばなりません

しかも「演劇」は声を出してナンボ(中には違う表現をする人たちもおりますが)なので声を出す際には窓を開けて換気

という事をしつつもいつもより遠慮がちにやらねばならない雰囲気はさすがに気合もまだ入りきりません

ですがそれでもこうして貸してくださる場所があるというのは有難いことです

ただ、、、稽古といっても一人でやってもあまり楽しくないわけで、かといってKEWA者RAPは劇団ではなく「不定期集合体」つまりユニット形式なので毎回同じ面子ではなくその度に集めてますから声を掛けないと誰も来ないのです

(ーー;)

そしてこういう状況なので大人数でというわけにはいきません

本音は新人発掘とか、隠れた人材発掘とか、色々と目論んでるのですが現時点では遠慮気味に声かけてます

あと、世間での演劇を取り巻く状況はコロナ禍以来、厳しいままです

個人的にはビニールシートを隔ててのお芝居なんてのはゴメンですが感染の事は無視できません

今は何が出来るかを模索してますがもしかしたらこれは何かのきっかけになるかもしれません

勿論良い意味で、です

だから実は「次」が楽しみなのです

とにかく稽古だけは継続します

演劇人と名乗る以上、稽古をして舞台に立てるからだと心を作っておかないと、、、ですから













  

緊張の春、日本の春

某百均(税抜)ショップへ行ったら思いの外混んでまして、、、(ほぼ親子連れでしたが)ああいう場所だと目的以外の物まで見ちゃうんですよね

ただでさえ狭い通路でソーシャルディスタンシングとかいうのはほぼ無理なわけで、スーパーなんかも時間によってはさぞかし大変なんだろうなって思ったわけです

そういえばリサイクルステーション(古紙回収とかしている場所)も混んでましたが、外出自粛とかいうので皆やる事がないせい、、、なんでしょうかね

そんな事書いたら怒られそうですが、混んでるといえば昨日の仕事帰りに寄った銭湯

いつもだとあの時間帯ならいい感じに空いてるはず、、、、ですが何故か昨日はギュウギュウでして、そもそも銭湯という空間でソーシャルディスタンシング(横文字面倒くせ、、、)なんてのは不可能なんですが、空いているからこそゆったり湯に浸かれたりするわけですよ

なのでいつもより早く上がったんですがそうでなくともカラスの行水ですので大して違いはなかったりという

それにしても終息?収束?色んな文字を目にしますがこの状況がいつまで続くのかって話ですけど「家にいてもつまらない」という言葉を耳にする度に、そんなもんかね、やれることって結構あるんじゃね?と思う今日この頃

私なんかも整理したい物が山ほどあるんですけどなかなか手に付けられない
いや、付けられないというか、その気にならないだけなんですが、こういう時だからこそ、って思うのになかなかやる気にならない

片や好きなコトなら出来るはず、と思ってもたとえば芝居の稽古なんかも場所が借りられなくても自宅でストレッチ程度なら出来るんですよ

なのにやらない、やる気にならない

モチベーションが下がってるってのもありますがやっぱり場所を変えて気分転換するってのは大事な事なんでしょうかね
百均でも何でもそうですが

とはいえ家に居てやる事がないってのも何だかねぇ

本だって読めるし、溜め込んだ録画済み番組だって消化できる
何ならタップだって踏んでもいい、板だってあるんだし

、、、言う程出来てないけど(-_-;)

そういえば入ったはいいが観る時間を作れずかといって退会も出来ないまま今日に至るNetflix

月額880円だからそれほど負担にならないしと思いつつもほとんど観ないまま880円払うならレンタルでいいじゃないかと思ったりのNetflix

でもたまに当りがあるんですよ、たとえば『深夜食堂』なんかもNetflixオリジナル版が観れたりしますし、テレビ東京系でしか放映されてなかった『ハイパーハードボイルドグルメリポート』(かなり面白かった!)そして今ハマってるのは『the sinner』っていうアメリカのドラマシリーズ

まだシーズンしか観てないんですがこれが良いんです
シリアスというかズドーンって重くのしかかる話なんですが色んな要素が複雑に絡み合って最後まで目が離せない、っていうか観始めたら止まらない

こういうのって日本のテレビドラマじゃ、なかなか作れないですよね、、、なんでだろ

とか何とかテレビ漬けしているうちに春が過ぎ夏が過ぎなんてことにならないようにしないと

このまま稽古場を確保できない状況が続くなら独りで出来ることを考えるのも手かな、と思いつつも、人が死んだり殺されたりする話ばかり続けてやってたから、次はそうじゃない、希望に満ち溢れた内容の芝居をやりたい、そこそこ人数が出るようなもので、、、とか色んな事は考えてるんですけれどね、そこからのアクションがない

やっぱりモチベーションが上げないとなぁ、、、こういうのはヒトとの交わりがないと、、、とか他力本願

、、、稽古場、何とか出来ないかなぁ







  

ケワロス

ご無沙汰いたしました
ご無沙汰いたしすぎたかもしれません
ご無沙汰いたしすぎてその間にどこもかしこもウィルス一色
いつもなら花粉が話題になりそうな頃にも関わらずウィルスウィルス、、、

しかしながら今の私にとって脅威なのは「思い込み」という頑固なウィルスによって頭の中が膿んでしまっているオトナたち

融通が利かない、扱いづらい、つける薬なしのお手上げ状態です、ほんと、、、勘弁してほしいものです

ところでこないだ「ケワロス」っていう馬が居る事を知りまして

、、、競馬の話ですよ念の為

これはやっぱり賭け、、、応援しなきゃ!という事になりまして
とはいえどう見ても実力不足の人気薄だったので、まあ応援なんだからという事で複勝で100円、賭けてみたんですよ

そしたらなんと!3着に!

100円なんで大した儲け、、、応援結果では無かったのですがそれでも14倍くらいついたので驚きました

名前で賭ける、なんてシロウトみたいな事してますけど(ってシロウトちゃうんかい!)たまにはいいものですねこういうの(肝心の重賞は不発連発でしたが、、、トホホ)

ということで世の中に居るかどうかわからない「ケワロス」の皆様

予定では3月に入ったら稽古場を借りてボチボチ再開しようかと思っていたわけですがこの通りの世情でございまして
稽古場として利用していた場所も公共の施設という事もあって15日までは借りる事も叶わず、、、

身体を動かしたり声を出すなんてのは自宅でも充分出来そうなものなのですが、やっぱり気持ちの切り替えがないとなかなか出来ないものです
なので再始動までしばしお待ちください(待ってる人が居ればの話ですが)

もっとも、お笑い芸人ならここでネタでも作ればいいのですが、、、いっそ芝居からちょっと脱線して本気でお笑いネタを練ってみようかしら

次回は思い切りコントで、とか

なんて冗談はさておき、お笑いといえばR1

R1といっても売り切れ必至のヨーグルト(R-1)の方じゃなくてピン芸人のグランプリの方ですが、毎年どうせつまらないだろうと思いつつ何だか観ちゃうんですよね

今年も結局、最後まで観てしまいましたがいつもモヤモヤした感じが残っちゃうんですよね
面白いものもあったとはいえこれって練られたネタなのかなって、こんなんばっかりでいいのかなって

芸って磨くものですよね?
芸人ならライブなどでお客さんの前でかけてみて反応を探りながらそのネタを磨いていくんじゃないかと
そうやって磨かれたものをグランプリにぶつけたのなら面白いと感じなくてもいいと思うんです、笑いのツボなんて個人差があるわけだし

でも最近のピン芸って勢いとかハッタリだけでやってるのが多い気がして、そういうのってやっぱりYOUTUBEとかの影響じゃないかって気がするというか

サムネでハッタリきかせたり奇をてらっただけの勢いネタがもてはやされたりとか
結局はサクッと見て済ませられるかどうか
つまりはわかりやすいかどうかで決まるような気がするんですよ

お笑いはそれでいいとしてもそういうのを芝居にも求められると随分と窮屈になってくるのかなあって
ハッタリは時に必要ですけどね、それだけではなんとも浅いというか、、、逆にわかりにくいものをやろうとするのはただの天邪鬼なんでしょうかね

と言いつつやっぱり笑いの世界は魅力的

やっぱり次はお笑いかな