枕元に必ず置いておく水筒がございまして
中身はというと最近は黒胡麻茶なんですが目が覚めた時に喉の渇きを潤すにはちょうど良いんです
毎晩、冷蔵庫にあるペットボトルに入れてある作り置きのソレを注ぐわけなんですが、こないだ入れたのがどうもいつもより濃い色目でして
試しにちょっと飲んでみるとやっぱり苦いんですよ
自分で作ったわけじゃないのですが、こりゃ煮詰め過ぎたのかな、と
思いつつも良薬は口に苦し的な?
まあいいかという事で枕元に置き、目が覚めると飲むわけです
う~ん、やっぱり苦い!
そうして翌日、またソレを注ごうとした際に一応味見するとやっぱり苦いんです
で「いつもより煮詰め過ぎたんじゃね?」と中身の入ったペットボトルを片手に確認したんです
すると返ってきた答えがなんと
「それ、アイスコーヒーだよ」
えっ。。。?確かにアイスコーヒーのボトルだけど中身は違うのかと。。。だっていつもこんな感じのボトルに作り置きしていたし
っていうかよくよく考えたらこれ
コーヒーの苦みだよ
。。。思い込みって怖いですね
黒胡麻茶だと思い込んでいたらコーヒーだったという
えっ?単なる粗忽者ですと?
ということで今回のお題は「暗転」
全然関係ないわけじゃございません
ところで「暗転」ってご存知でしょうか
場面転換などがある場合に一瞬、舞台上が真っ暗になるというソレです
あと始まる前に徐々に暗くなっていって、というそれも溶暗と呼ばれる一種の暗転です
そんな「暗転」
舞台をやっているとどうしても「暗転」が気になるわけでして
中途半端に出入りする姿が見えたりすると
「暗転が出来てねぇな」と揶揄され
暗転中のドタバタが聞こえたりすると
「暗転がなっちゃいねぇな」と揶揄され
暗転時間がやたら長かったりすると
「暗転がダメだな」と揶揄され
結局、暗転が一番大事なのかと思ったりするのですがなんだかんだ大事な事には違いないのです
私も暗転のタイミングとか結構気にする方でそこにセンスを問われても仕方ないと思う事もしばし
ですがこないだ観たお芝居で「暗転」について考え直さざるを得ないというか
むしろ「暗転」なんてこだわらなくてもいいんじゃないか
そんな事を思ったわけです
こないだ観た芝居。。。そうコロナ禍以来、地元で永らく上演されていなかった演劇公演
その先陣を切るのは自分だとばかり思っていたのに。。。などという事は思ってませんが(嘘です、ちょびっとだけ思いました)
勢いというのは凄いもので最近知り合った方がそれをやっちまったわけです
しかもその場所がまた面白そうなところでして
普段は燻製のものを売ったり週末にはバルをやっているところらしいのですが、どんな事をやるんだろうと
興味半分で観に行ったらこんな空間でした
そうです
そこには舞台設営には欠かせない暗幕が張っておらず、しかも夕刻とはいえまだ明るい時間
当然ですが「暗転」など不可能
出ハケ(出入り)丸見えですがな
がよく見るとガラスの入った戸の格子がまるで舞台装置のようで向こう側に見える庭もそんなに悪くない
。。。これはあえて見せるつもりなのか?
そうこうするうちに上演時間となり、舞台に灯されたスポットライトが消えるとなんとなく薄暗い雰囲気に
そして戸の向こう側の廊下に現れた演者の姿、それはまるでシルエットのように。。。
これはこれで。。。アリじゃね?
暗転(ここでいう暗転とは完全暗転)すればそれで良い、とは思わなかったもののこういう見えそうで見えない暗転もありなんだな、と
そういう意味ではかなり刺激的というか、オモシロイ試みでしたし、何より
演劇って衝動なんだな、と
改めて感じさせられました
。。。先を越されたのは悔しかったけど
まあボチボチやりますわ